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驚異のチョッパー「TITAN」を生んだ男 代々のノーマルモデルだけではハーレーのすべては語れない。カスタムという、もうひとつの大きな流れがあるからだ。 アメリカの魂をハーレーに具現するこのカスタムの奔流に挑んだひとりの日本人。 彼のアイデンティティ、そしてマシンに生を与える技術は「TITAN」に帰結し、ベストカスタムとして輝いた。 '89年、カリフォルニア州オークランドで1台のマシンと、ひとりの日本人が大きく注目されていた。 オークランドのカスタムバイクショーに出展されたこのチョッパーは、会場にいた全米のチョッパー・ビルダーたちとギャラリーたちの視線を一斉に集めてしまう。多くの賞賛を受けたこのチョッパーは優勝をつかみとる。 ショー開催の前、マシンを会場に搬入する際にそのチョッパーはすでに複数の男たちの目にとまったらしい。男たちはそのチョッパーを見つめ、物騒な人間の集まる会場でそのチョッパーとそれを持ち込んだビルダーをボディーガードした。そのボディーガードをした男たちのボスである人間は、優勝を勝ち取ったそのビルダーにプレゼントを手渡すほど、そのチョッパーに深い感動を受けていた。 男たちは、「HELLS ANGEL'S」だった。「実際、自分自身驚いたよ。あんなに手厚く迎えられるとは思いもしなかった」その話の中心人物である佐藤由紀夫氏は、ショーの話を、そして自らが造り上げた「タイタン」のこと、そして自分自身のことを語ってくれた。 今から24年前、米軍の立川基地と横田基地の周辺で彼はチョッパーに遭遇する。「当時はまだ今の様なチョッパーではなく、ハーレーというわけでもない、CBをベースにしたものだった。兵隊たちがそれを乗り廻していた。ガキの時分からアメリカの文化とごく身近に接してきた自分に、そして若かった自分に、そのチョッパーは素直に、そしてインパクトをもって入り込んで来た」それ以来、今日に至るまで佐藤氏は自分の好きなチョッパーというスタイルのバイクと深く付き合う様になる。 21歳の時、大切にしていたハーレーと別れ、単身渡米する。そこでバイカーたちと出会い、共に生活する。日本に帰ってからも、建築デザインの仕事をする傍らバイクに入れ込み、資金を貯めては渡米を繰り返す。その頃「TITAN」のアイディアが生まれたという。 20代後半、大森に「モーターサイクルズDEN」をオープン。意欲的にカスタムを行い、佐藤氏は確実にセンスを磨いていく。数年後、世界に通用するチョッパービルダーの道程として馴染みのあるハワイへ進出、世話になったビルダーたちへの恩返しとして、日夜トップビルダーを目指し、佐藤氏自身がいうところの「納得するまで」ビルダーとしての仕事に励む。そして「タイタン」が完成し、現在の河口湖へとつながって行く。 「1台のバイク、それを深く掘り下げるといろいろなものが見えてくる。雑誌で取り上げないのが不思議なくらいにね」 「深く付き合うということ、それは家族に対する愛情と同等の愛情をマシンに注ぎ込むこと・・・・・それはライフスタイルとして完成されたものであり、ひとりのオートバイが好きな男として純粋な気持ちを保つことができる。流行に左右されない強固な自分の考えを持つことができる・・・・・」 佐藤氏が現在の自分のスタイルを強調する。そのスタイルこそが、少年時代、メカをいじりながら夢に描いた「タイタン」を現実のものとして完成させる原動力となったのだ。 ギリシャ神話に現れる巨神の名を冠せられたこの「タイタン」の製作は、20年近いキャリアを持つ佐藤氏が、幾人もの協力者の力を得ながら4年の歳月をかけて行われた。製作するにあたり、このチョッパーの外観に映るすべてのパーツは、材料を選びステンレス、チタン、アルミの3種のみを用いた。通常、この手のフレームにはクロモリもしくは純鉄が使用されるが、このマシンに関してはステンレスを使っている。塗装はなく、ブラスト処理のみが施された。スプリンガーもフレームと同じくステンレスを使った一品ものである。 エンジンに関しては、ストロチェックというブランドのものをベースに、ワンオフで造られたヘッド、ロッカーカバー、シリンダーを使用する。特にヘッドに関しては、バルブの挟み角から補助燃焼室を設けなければならず、設計から見直しての部品となった。排気量は1500ccに高められている。オイルラインはほとんどがステンレスのパイプを使用しており、外観的に異様な雰囲気を漂わせている。しかし、造りはシンプルにまとめてある。余計なものは一切ない。覆い隠すものもなく、濃やかな細やかな処理まで眺めさせてくれるエンジンとフレームワークは「モーターサイクル」の美しさを高い次元に引き出している。 *上記記事は1991年5月発売の潟潤[ルドフォトプレス「月刊SPY」からの抜粋ですが、内容の一部を真実に基づき訂正してあります
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